12月11日、新木場studio Coastで行われたヨルシカのライブ「月光」に行ってきました。
このライブは圧倒的な世界観で観客を曲に引き込んでいくような、これまで見てきた一般的なライブとは似て否となるものでした。
このライブ形式はこれからのライブの形を作っていくものなのではないか?と感じたのでその理由をまとめていきます。
世界観【前提】
前提としてこの「月光」ツアーはヨルシカが出した2つのアルバム「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」のコンセプトライブとなっています。
そもそもこの2つのアルバムがそれぞれ小説1冊分くらいの内容を背景に抱えたような作品なので、作品自体にもともと圧倒的な世界観がすでに存在しているような状態です。
アルバムが全てかと思っていたら、ストーリーを元にアルバムを作っているのでアルバムの曲がむしろ全体の上澄みのような感じです。
世界観【ライブ】

このポストカードはライブ当日に配られたものです。当日の帰りの際に折れてしまって見にくくなってしまい申し訳ないですが、、、
ここでも強調されているように2作のコンセプトアルバムの楽曲から成るコンセプトライブなのです。
僕はこの2作の作品のエピローグ的な立ち位置なのでは、ないかと見た後に感じました。
まるで演劇のようなライブ
見る前はコンセプトライブだとは知りながらも、ヨルシカのライブを聞きにいく、という心構えでした。
しかし、実際の印象は全く違うものに。
一言でまとめるなら、演劇を見ているようでした。
ライブなのに演劇に似たものを感じた理由として、まず大きく驚いたのはMCが1回もなかったということ。
これまで様々なアーティストのライブを見てきましたが、MCがないアーティストというのは初めてでした。
n-bunaさんが歌うラップのような時間が途中にあるだけでMCではありませんでした。
そもそもこれは青年の心情を語るような、アルバムの曲と曲を繋ぐライブ限定の曲といった感じだったので、そもそもこれも演目の1つのようでした。
次にライブの演出が視覚的に分かりやすかったということ。
大きく目を引く点として、舞台の作りが作品の場所そのもののような作りでした。
街灯や階段、エルマが歩いたのではないかというような舞台。
演奏の最中にsuisさんがその場所に移動しながら歌った姿を見たりすると、まるでエルマがそこで歌っているような感覚に。
また、曲によってはステージ後方のスクリーンに歌詞や曲に合わせた映像などが流れる演出が数多くありました。
物語性の強いアルバムということもあって、曲を聞きながら文字も確認できることによって作品への没入感がより増していく。
文字、映像、光など音以外の感覚からもたくさんの刺激を受けました。
最後にセトリがスクリーンに映し出された
これも初の体験でした。
セトリがライブが終わった直後に映し出されたのです。
ライブが終わった直後にアンコール待ちをしているときに、突然の演出だったので会場はキョトンとなっていました。
ライブではなく物語
セトリが映し出されたとき、なんとなくふに落ちたことがあります。
それがこのライブはヨルシカの音楽を聴く時間なのではなく、「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」のエピローグを音楽という手段で感じる時間なんだと。
ライブにしてはMCもなく、盛り上げるような演者からの掛け声もなく、淡々とライブが進んでいるような印象でした。
だからこそ見てる最中にずっとなんとも言えない違和感がありました。
しかしこれが演劇や映画、物語を見ているという感覚で見るとどうだろうか。
2作品のその後を見るという目的があり、舞台や演出によって内容への理解度が深まり、最後はエンドロールのようにセトリが映し出される。
捉え方変わったとき、違和感が全てなくなりました。
これからのライブ
きっとすでに音楽は世の中に溢れすぎています。
きっとすごく上手な人の上にさらに上手な人がいて、もしかしたら今後楽器を弾くのすらAIが1番になってしまうかも、など。
音楽を聴くだけなら、聞く側は特に苦労なく最上級が楽しめる時代だとも考えられます。
では、上手なだけでは代替えされてしまう可能性や、人の目を引けない時代が来ているなかで自分の演奏を、自分の音楽を聞いてもらうのか。
その回答が今回ヨルシカが作り上げた物語に集約されているのだと思います。
物語を作り上げられるのは作者のみで、その作者が意味を込めて行うライブも作者しかできません。
この独自の物語性を感じたくてライブを見に来ることがこれから増えるのであれば、今後のライブは音楽的な技術だけではなく、合わせて楽曲の物語性も高めていく必要がある時代がくるのではないのでしょうか。
まとめ
僕にとっては革新的なライブであると感じました。
成長と革新が止まらないヨルシカを今後も追い続けたいと思います。
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